去る4月28日、長年入院していた母親が亡くなりました。享年87歳。10年以上入院していて、入院生活の中でだんだん衰えが見えていたので、覚悟はしていたのですが、いざ亡くなるとなかなか実感が湧かず、しばらくは現実が受け止められない感覚でした。コロナの時期が重なってしまったので、最期の2か月ほどはお見舞いにも行けない状況だったので、ギリギリでの電話連絡となり、病院に駆けつけた時には既に息を引き取っていたという事態になってしまいました。一昨日に四十九日を終え、だんだんと実感が湧き始めた、そのような感じです。
この家については、永井専三という祖父が約100年前(大正12年)に建てたものですが、専三の親戚であった私の母親は、昭和14年、子供の頃に養女としてこの家に入り、その後ずっとこの家に住み続けてきました(なので永井専三は本当の祖父ではありません。私の父親は昭和34年に結婚して養子としてこの家に入ってきました)。私は、永井専三が亡くなった翌年の昭和42年生まれなので、母親は私が生まれる30年ほど前からこの家に住んでいたことになります。当初は私が知らない女中さんや男衆さんも住んでいたようですし、部屋の使い方や庭の景観など、私の幼い頃の記憶とはまた違う様子だったと思います。母親から昔の話はあまり聞いたことがなく、藤井厚二が設計したということも知らなかったようなのですが、私が子供の頃から、この家のことを「住みにくい家」と言っていたのを覚えています。冬の寒さがきつく、給湯や自動洗濯機もない時代の炊事や洗濯などの水仕事はとてもつらかったと思います。また、やけに長くて冷たい廊下や、高い位置にあって入るのが一苦労の和室など、バリアフリーの観点でも優れているとは言えません。今でこそ、冷暖房や給湯、洗濯などの機能向上が進み、部屋の使い分けも機能的にして、だいぶ楽にはなってきたと思いますが、それでも年をとった時のバリアフリー化については課題が残ったままだと思います。
住みにくいと言いながらも、母親は懸命に家の世話をしていたと思います。家の掃除も庭の手入れも、母親から学んだ事柄がたくさんあります。初代の専三から、二代目の母親、そして長男の私へと、この家のバトンが引き継がれています。時代に合わせて、簡略化する部分と、ブラッシュアップする部分とがありますが、夫婦で力を携えて、三代目として家を受け継いでいきたいと思っています。
Katsuji
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