story31.新元号「令和」に決まる、名前の由来あれこれ

本日から4月、新しい年度が始まります。それとともに、先ほど「平成」から変わって新しい年号が「令和」と発表されました。令和は、万葉集の「初春の令月にして気淑く風和ぎ・・」の歌が由来で、「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」といった意味が込められているそうです。このように物の名前、特に人名や地名にはいろいろな由来があり、そのあたりを調べてみると、少し歴史を紐解くことができて面白いです。

私が住んでいる市は「吹田」。田んぼの字が入っていることからも分かるように、大阪北部の辺りは、大阪中心部とは異なり、昔は農村中心の地域だったことが想像されます。「吹く」という字が付けられているのは、低地の田んぼだったために水が盛んに噴き出したことに由来するそうです。

また、吹田市の中でも、私が住んでいる集落は旧山田村になります。田んぼが多い上に、万博公園あたりの丘陵地に代表されるように山も多かったことが想像されます。「山田」は、江戸時代、幕府や旗本などの支配下にあり、交通の要衝だったそうで、今でも多くの寺院が残っています。山田の中心部には戦前からの建物が多く、板塀、板壁の町家、白壁の土蔵などが多く見られます。

このように、住んでいる場所は「吹田」「山田」など少しもっさりとした地名なのですが、この辺り一帯を「千里」と呼ぶ場合もあります。昔、山田村の隣の佐井寺辺りは「千里村(ちさとむら)」という村でしたが、大正時代、その村の西部に高級住宅地が開発され、そこが「千里山(せんりやま)」という地名になったそうです。その辺りは標高60m前後のなだらかな小山が沢山あり、千里にもわたって連なるように見えたことから、そう呼ぶようになったとのことです。その後、千里ニュータウンの開発頃から、豊中から吹田、茨木あたりにかけての丘陵地一体を「千里」と呼ぶようになり、千里山、千里中央、家の最寄り駅である千里丘など、かなり広範囲にわたるエリアが千里と呼ばれます。千里というと約4,000km。日本の長さを遥かに超える長さで、どことなく雄大な印象を持ちます。「せんり」という響きも含め、何となく洗練された感じで好きな呼び方です。

子供の頃からこの辺りを遊びまわり、山田中学、千里高校、吹田キャンパスの大学に通った青少年期。この年になっても、この界隈には変わらぬ愛着を感じています。特に、写真にある旧山田村の中心部は今でも古い街並みが残っていて、散策すると、とてもノスタルジックな気分になります。 

Katsuji

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